D. D. パーマー
D. D. Palmer
1845年にカナダのオンタリオ州、ポートペリー生まれ。
彼の治療室があったビルに、十何年も前から耳が聞こえなくなった守衛、ハーヴィーがいました。
ハーヴィーの聞こえなくなった理由、無理な体勢で作業をしたときに背中からボキッと音か聞こえた、と言う話に興味を持ち、ハーヴィーの承諾のもと背中を検査したところ、骨が飛び出ていることに気づきました。
原因はここだと確信したパーマーは、両手でその飛び出した関節を押し込んだところ聴力が回復、それと同時にカイロプラクティックが誕生しました。
B. J. パーマー
B. J. Palmer
D. D. パーマーの息子であるB. J. パーマーは、父が始めたパーマースクール オブ カイロプラクティックをわずか16才で入学し、翌年にはカイロプラクターとしてアイオワ州のダベンポートで働き始めました。
幾度も医師法違反などで、父共々逮捕されましたが、その逆境に負けず本の出版や講演でカイロプラクティックの普及活動に勤しみ、カイロプラクティックを広く普及させました。
B. J. パーマーは、カイロプラクティックの研究にも熱心でB. J. パーマー リサーチクリニックを設立し、難しい症状を取り除くための方法の開発や、ナーブトレーシング、メリックシステム、メリックチャート、メジャーとマイナー、スパイノグラフ、ニューロカロメーター、ニューロカログラフ、上部頚椎スペシフィックアジャストメント、エレクトロ エンセファロ ニューロメンティンポグラフなどを開発しました。
- 「正常なる神経エネルギーを各組織細胞へ伝えることが、カイロプラクターの仕事である。」
- 「目に見えないところが、見えるようにならなければ、一流にはなれない。」
塩川満章/1999/臨床カイロプラクティック/ルネッサンス・ジャパン
クレイ トムソン D.C.
J. Clay Thompson, D.C.
1909年米国ワイオミング州ハートビル生まれ。
クレイとカイロプラクティックの初めての出会いは、父親がひどい腹痛に悩まされたときに受けたカイロプラクティックであった。
この頃10代であったクレイは、後に自分自身が重い病にかかりもう一度このカイロプラクターを訪れることになる。
80才近くにもなったこの老カイロプラクターは、クレイに16日間、毎日矯正を行い病から解放させたことが、彼をカイロプラクターへの道に進むきっかけを作った。
1945年パーマースクール オブ カイロプラクティックに入学。
2年後の卒業とともにD.C.の称号を受け、パーマースクールでインストラクターとして働き、17年間教鞭をとる。
この期間に、クレイ トムソンは現在多くのカイロプラクティックで使われている、トムソンテーブルを開発し、トムソン テクニックの礎を築いた。
1958年、これまでのカイロプラクティック界における彼の貢献をたたえ、「カイロプラクター オブ ザ イヤー」を受賞し、今もなおそのテクニックは受け継がれ、最も有名なカイロプラクターの一人となっている。
塩川満章/2001/トムソン ターミナルポイントテーブル アジャスティング テクニック 基本と応用/ルネッサンス・ジャパン
塩川満章 D.C.
Mitsuaki Shiokawa, D.C.
1972年パーマー カイロプラクティック大学を卒業後、大阪の塩川整形外科に約1年間勤務、その後ベネズエラのカラカスで友人の Dr. ルイス バレラと南米で初めてのカイロプラクティック クリニックを設立する。
ブラジルにも南米最大のカイロプラクティック クリニックを設立し日系人100万人の健康管理に尽くす。その功績に対しベネズエラやブラジルより勲章が授与される。
バルセロナ オリンピックではオマーン国の公式カイロプラクターとして活躍する。
塩川雅士 D.C.
Masashi Shiokawa, D.C.
17才で渡米し2004年パーマー カイロプラクティック大学を優等で卒業。
ドクター オブ カイロプラクティックの称号取得。
米国ナショナルボード合格。
塩川貴士 D.C.
Takashi Shiokawa, D.C.
1999年に渡米し2001年に、パーマー カイロプラクティック大学に入学し、本場のカイロプラクティックを学ぶ。
2004年同大学卒業、ドクター オブ カイロプラクティックを取得。